NIKE DUNKの変遷
ふと気がつけば、いつの間にやらNIKE DUNKの人気が急上昇していた。そのきっかけは何だったのかピンポイントで定めることは出来ませんが、2019年1月のNIKE SB DUNK LOW PRO OG QS "PANDA PIGEON"辺りから少しずつ顕著になって来た様に思います。

実は2月下旬にatmosの本明社長からコラムを書いてみないか?という打診をいただき、20年以上前からの知り合いである本明さんからの依頼を断る理由もなくお引き受けしたのですが、直後に新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発せられ、感染拡大防止の観点からの休業要請をうけて8割以上の実店舗を休業している最中にコラムどころではないだろうと考え、開始の時期をうかがっていたところ…いつまで経っても書く兆しが見えなかったのか、業を煮やした?(苦笑)本明さんから「ダンクの変遷」と「次なる新しい世界でスニーカー市場がどうなるのか?」というお題と共に早く書け(笑)とお達しがあったのが、今回のコラム開始の経緯です。
本明さんはスニーカーショップの経営者として何か面白い事をしないと!と常々仰っていて、その本意は朧げながら感じ取っているつもりです。僕がコラムを書くことがその面白い事にあたるのかは些か自信はないのですが、時々小意地の悪いディスリスペクトを発信するから白羽の矢が立ったのだろうと自分では都合よく解釈しています(笑)。
また、本明さんからは何を書いても構わないとお墨付きを貰っています。という事はatmosをディスる可能性だってあるわけで。にもかかわらず、それをひっくるめて受け入れる懐の深さと何か面白い事をしようとする大胆さが、ともすると誤解を招く要因になっているのかも知れません。
まぁ、しかし…流石に僕も人の子なので、ある程度の忖度はします(笑)。

僕はプロのライターでもないですし、筆が立つわけでもありませんから…今回もあくまで1ユーザーの視点で自分がリアルタイムに見て聞いて感じて来た私感を混えて「NIKE DUNKの変遷」について書いてみたいと思います。

前置きが随分と長くなってしまいましたが…どうぞ、最後までお付き合いいただけると幸いです。
■NIKE DUNK オリジナル
ナイキのスタッフが1983年-1984年シーズンの全米大学体育協会男子バスケットボールトーナメント(NCAA Men's Basketball Tournament)を視察した際、出場校の中で名門とされるチームのスクールカラーを採用したバスケットボールシューズの製作を思い立ち、カレッジカラープログラムの主力機種として開発されたNIKE DUNKはその色鮮やかなバリエーションで、1985年にデビューを飾りました。

AIR JORDAN 1のファーストカラーである白赤黒(シカゴ)とほぼ同時、1985年の年明け早々にアメリカにて発売されています。ですが、NIKE DUNKのオリジナルは残念ながら日本での正規発売はなく、極少数の並行品が16,000円(当時)程の価格で国内流通していました。

NIKE DUNK のオリジナルは計7色で下記の通りとなります。

白×青=ケンタッキー大学
白×赤=セント・ジョンズ大学、ノースカロライナ州立大学、メリーランド大学カレッジパーク校、ジョージア大学
白×オレンジ=シラキュース大学
白×紺=アリゾナ大学、ビラノバ大学
灰×赤=ネバダ大学ラスベガス校、オハイオ大学
紺×黄=ミシガン大学
黒×黄=アイオワ大学、パーデュー大学

※ナイキは過去に7色11校のスクールカラーという公式アナウンスをしていますが、13校あります。ん?(笑)。
ジョージア大学はNIKE DUNKよりもBIG NIKEのイメージが強くあったり、オースティン・ピー州立大学のバスケットボールチーム全員が白赤のNIKE DUNKを着用した写真を見た事があって、マニアにしか分からない大学名での呼び方より、紺黄とか白青って呼ぶ方が間違いがないし、分かりやすくてしっくり来るんですよねぇ。なので本コラムでは紺黄だったり、白青という呼称で統一させていただきます。
Special Thanks:@ushi013 
以上に加えて、ジョージタウン大学のバスケットボールチーム「HOYAS」に提供された紺灰のTERMINATORを含めてBE TRUE TO YOUR SCHOOLと呼ばれています。
※ ジョージタウン大学のみがNIKE DUNKではなくTERMINATORになった理由は、他の大学チームとの間に何らかの兼ね合いがあったから?だとかコーチが黒人であったから?という諸説があります。

1985年に市販が始ったNIKE DUNKは1987年度のカタログまで掲載されていたそうなので、3年近く継続販売されていたと思われます。

エピソード的な事に少し触れると例えばアイオワのNIKE DUNKのボックスカラーは黒と黄である様に、オリジナルはシューズとボックスの色が統一されていました。
また、白青のNIKE DUNKはケンタッキー大学のチーム名がワイルドキャッツだった事からシュータンにキャットのグラフィックがデザインされ、通称タイガーダンクと呼称されています。
更に、AIR DUNKと呼ばれるモデルはナイキがプレイヤーからの要望に応える形で、NIKE DUNKのアッパーにAIR SHIPのツールングを組み合わせた今でいうハイブリッドの先駆けとなります。

先にも書いた通り、NIKE DUNKのオリジナルは日本での正規販売はなく…当時はプレイヤーが履いているのをバスケットボール雑誌の誌面で確認するくらいしか情報を得る手段がありませんでした。なので日本では一部のコアなマニアだけが知っているという様な存在でしたが、90年代に入った頃にビンテージスニーカーブームがあり、それをきっかけにデッドストックやユーズド、プレイヤーズモデルが並行で日本に上陸。日本未発売だったという希少性もあり、かなりの高額でビンテージモデルを取り扱うショップに並んでいた記憶があります。

尚、オリジナル当時はローカットの情報が少なく、その為か並行でも日本に入ってきた数はハイカットよりも更に少数でした。
■ NIKE DUNK 初復刻
オリジナルの初登場から約13年の時を経た1998年8月頃からNIKE DUNK復刻の情報が私達ユーザーの間で流れ始めました。
その時期から推察すると1999 LATE SPRINGの展示会で配布されたカタログに掲載されていたのがきっかけだったと考えられます。
インターネットが普及しはじめた初期の頃なので、ユーザー間ではNIKE DUNKが復刻されるかも?から復刻されるらしいという噂が口コミによって広がり、同時にTERMINATORも復刻されるのでは?という話まで聞こえて来ました。TERMINATORはオリジナル当時、NIKE DUNKと共にBE TRUE TO YOUR SCHOOLのひとつに数えられる事から復刻もそ同時期になるだろうという憶測と期待から出たデマだったのか?それとも展示会でセールスがリテーラーに対して雑談レベルで伝えたものであったのかは定かではありません。
ただ、結果としてTERMINATORの初復刻は2003年の初秋まで待つ事になります。

かつて、カタログといえば各シーズン毎に展示会場でリテーラーに配布されていました。その時代はある程度ショップと親しくなっていれば店頭で閲覧させてもらえたり、シーズンが終わり既に用済みになったものを譲ってもらえたりもしました。
今は製本された印刷物ではなくパスワードを入力してオンラインで閲覧するのが主流になっていて、一般ユーザーの目に触れる事はほぼ皆無に近い状態です。
余談ですがナイキの展示会は年4回実施されていますが、3年ほど前に大阪での展示会がなくなって東京のみで開催される様になり、直近では新型コロナウイルスの影響で完全リモート化となりました。
また、アディダスの場合は商品画像と共に営業マンが商品説明をする動画を延々と見なければならず、リテーラーから不評を買っているらしいです。どうでもいい話ですね。失礼しました(笑)。

リモート形式の展示会は新型コロナウイルスの影響を考えるとやむを得ない事ですし、展示会を開く会場費、サンプルや什器を運ぶトランポ費もかからないので合理的ではありますが、手に取った感触や肉眼で見る質感、発色等を確かめられずに発注しなければならないバイヤーの方々は相当苦労するのではないか?と思われます。
何より合理化が進み過ぎる事で人と人との繋がりが希薄になり、そこに血の通った暖かみの様なものがなくなると…不思議な事にそれは商品にも感染し、ユーザーもその商品に対して深く思い入れをしなくなって、いずれ売れなくなって行くというプロセスに繋がり兼ねません。この両者に因果関係はないと思われがちですが、理屈やデータだけでは推し測れないのが小売の難しさなのだと思います。

大きく脱線してしまいましたが、NIKE DUNKに話を戻します。
国内正規発売よりも早く1998年11月中旬頃から並行店に紺黄と白青が並び始めたと記憶しています。その並行価格は12,800円〜19,800円と店舗によって差がありましたが、国内正規価格の14.000円より並行価格の方が安い所があって飛びつく様に買った人も多かったのではないでしょうか?実は僕もその1人でした。
当時のレートは1ドル120円前後で日によっては100円代になる事もあった時代。ハイカットが70ドル、ローカットは65ドルというアメリカの正規価格と日本の正規価格との間に2倍近い開きがありました。
また、これはあくまで憶測ですが1998年の年末、最初に並行店に並んだNIKE DUNKの多くはアメリカの正規店の店頭で販売されていたものだけでなく、いわゆる正規工場からの横流し品(スニーカーに限らずシューズ全般の並行輸入卸売販売を生業とする中堅以上の業者はナイキに限らず正規工場とのコネクションを持っていました)だった可能性が考えられます。
一時期、ナイキジャパンはナイキジャパンが卸した物以外は正規品であってもそれは偽物だ!とかなり乱暴なアナウンスをしていましたが、流石にそれには無理がありました。

並行モデルが予想以上に早く、しかも国内正規と変わらない価格帯で市場に出回った事で並行品を扱わない正規リテーラーからの苦情や要望が入り?ナイキジャパンは当初の予定より早くNIKE DUNK HIGH LEの出荷を余儀なくされ、2月下旬頃に紺黄と白オレンジのハイカットが晴れて日本で正式に発売となりました。
ただ、並行で流通していた白青は初期復刻での国内正規発売はありませんでした。
その後も紺白のローカット等の並行品が正規よりも早く市場に出回る状況は6月頃まで続いていたと記憶しています。

7月に入ってQuick Strikeという名称の限定名でハイカット、ローカットが各数モデル発売されますが、販路は比較的広く…エリアによるかも知れませんが、早朝から並ばないと買えないという様なことは全くありませんでした。何より発売日というものが今の様に厳格に定められておらず、徹底もされていなかったので馴染みのショップを持つ人なら平和に買えていた、そんな時代です。
※これが最初のQuick Strikeで、この名称は現在でもカタログ外プロダクトのモデル名に略号としてQSと付けられる事があります。
そして8月にジャパン企画(事実上のCO.JP<コンセプトジャパン>第1弾)である東京上野のCity Attackからそれぞれの配色を反転させた通称 裏ダンクが登場します。
Quick Strikeが表、City Attackが裏という位置付けで同年10月、11月、12月と8月リリース分を合わせて表裏全18色が展開されます。
尚、City Attackという呼称は戦争を連想させるという理由から使わなくなったと聞いた覚えがあります。
12月度のQuick Strikeにはゴムガセット付きの厚いシュータンとガムソールを装着した日本限定の初代アクティブスポーツ対応モデル…後にNIKE DUNK SBのプロトタイプと言われる様になったNIKE DUNK LOW PROが3カラー同時発売されました。
1998年から1999年にかけては、ナイキでいえばAIR MAX 95を筆頭に社会現象になったハイテクスニーカーブームが終焉し、ランニングのフラッグシップモデルであるAIR MAX 98が大コケ。頼みのAIR JORDAN 13も期待したほどは振るわなかったというスニーカー業界の冬の時代にあって一閃の光明を見出した裏ダンクとその後のCO.JPは、当時のナイキジャパン東京プロモーションチームの大きな功績であり、関係者の間では今もなお高い評価をされています。
■ NIKE DUNK 初復刻以降
NIKE DUNKのリリースは2000年入ると日本では一旦落ち着き、それと入れ替わる様にグローバルでの展開が活発になります。
この時期にフットロッカーやフットアクション、フィニッシュライン等の量販店の別注モデル(実際は別注ではなく専売モデルという位置付け)が発売され、その中のいくつかは日本の並行ショップでも販売されていました。
一方でNIKE DUNKの復刻に歓喜したユーザーの間では80年代キックスの復刻を熱望する声が増え始めます。
1998年にNIKE DUNKの復刻の情報が流れ始めた際にオリジナル当時、同時にリリースされたTERMINATORも復刻するのでは?という噂が持ち上がっていた事は既に述べましたが、結果的に1999年時点でのTERMINATORの復刻はなく、故にいわゆるターミネーターカラーと呼ばれる紺灰のカラーコンビネーションに特別感を持つ風潮が当時のスニーカーシーンに存在していました。

その声を受けての事だったのかは定かではありませんが、2001年にatmosが初めてカラー提案したExclusiveモデルが画像のNIKE DUNK LOWとAIR FORCE 1 LOWです。
また、ストリートブランドとタッグを組むプロジェクトの先駆け的存在となったSTUSSYとのコラボレーションモデルの発売も同じく2001年の事でした。
更に時を同じくしてNIKE DUNK LOW PROやNIKE DUNK LOW PRO Bが頻繁にリリースされ始めます。中でも日本限定コレクションCO.JPからカラースエードをマルチに配置したクレイジーダンク(後のバイオテック)の登場はセンセーショナルでした。
モデル名にPROが付くものはシュータンにゴムのガセットが装備されたもの(一部例外あり)で、更にBがあるものは薄タン、Bがないものは厚タンと区別出来ます。
※Bはカテゴリー名Branded Athleticsの頭文字で、今のNike Sportswearにあたります。
■裏ダンクがアウトレットに
少し話は遡りますが、2000年の10月下旬に裏ダンクが突如、NIKE FACTORY STOREで山積みされ、驚いたユーザーがたくさんいたと思います。
これは売れ残り品ではなく、とあるシューズ専門の大手並行輸入業者が裏ダンクを製造したナイキの正規工場に発注し作らせたロットで、出荷の直前にナイキジャパンが発見して差し止めたものでした。なので、インナーに付いているタグを確認すると品番は1999年発売のものと同じですが製造年月が異なっています(下のタグ画像は紺黄ローカットの比較です)。ナイキジャパンは差し止めたものの、今更リテーラーに卸すわけにもいかず、その処理に困った挙句…FACTORY STOREに流したという裏ダンクならぬ裏事情があった事はナイキジャパンにとっては笑えない黒歴史なのかも知れません。
ですがものは考えようで…曰く付きといえど正規工場で製造され、直営店であるFACTORY STOREで販売された事によって紛れもない正規品になったわけです。
2002年2月、アメリカの某展示会場でNIKE DUNK SBが発表されます。
その展示会に参加していた並行輸入の仕事をしていた知人が、ナイキジャパンに在籍していた事もある日系のスタッフさんに日本のサイトで紹介したいからという事を伝えた上で許可を得て撮影した画像を送ってくれました(Alternate Sneakers アーカイブ 2002年2月14日更新参照)。
画像を受け取った後、その知人から深夜に国際電話が入り、スケートボードショップやスケーターが色を付けたとかカラーリングしたという説明を口頭で受けたのですが、それをそのまま文章にするとイマイチ伝わり難いので、悩んだ挙句に◯◯提案カラーという言い回しを考え出しました。
このDUNK SBをアップした後の反響は凄まじく、翌日にはStreet Jackの当時の編集長から別冊であるスニーカーJackの誌面で使いたいと連絡が入り…あくまでサイトでの使用という約束で撮影してもらった画像なので、許可を出す権利は自分にはなかったので、苦肉の策としてアップしたサイトのページをキャプチャーして掲載するという条件を呑んでもらいました(もしスニーカーJack Vol.2をお持ちの方がいらっしゃれば確認してみて下さい)。
このファーストエディション6モデルは日本での正規発売はなく、ニューヨークに遅れること約2ヶ月後の2002年11月に発売されたSupreme DUNKが国内における初のDUNK SBとなりました。
以降、NIKE SBシリーズはSupremeをはじめ全国の選ばれしスケートボードのプロショップで展開が始まります。
初期のNIKE SBにおけるDUNKのモデル名は、NIKE DUNK LOW PRO SB、NIKE DUNK HIGH PRO SBとボックスラベルに表記されています。

この頃、ヨーロッパにてオリジナルカラーのNIKE DUNK HIGHや日本未発売のNIKE DUNK LOWが発売される等、グローバルレベルでは綿々と展開が続いていました。

2003年頃からスタッシュやフューチュラをはじめとするグラフィックアーティストやクリエイター、そして有名スニーカーショップとの共同企画によるコンセプトモデルが数多く登場。日本では発売されないものも多く、NIKE DUNKの全容を把握できなくなり始めた時期に差しかかります。
更にハイパーダンクやトレーナーダンク等のバリエーションも登場しますが、それらについては今回スルーします(苦笑)。
■ WHITE DUNK TOKYO
2004年1月19日から2月1日までの2週間の期間限定でWHITE DUNK TOKYOと銘打った展示イベントがパリに引き続き東京で開催されました。場所は港区南青山に建てられたNIKE SBのシューズボックスを模した特設会場。
これを記念して1月17日にスパイラル・ホール(当時)でレセプションも開催されいます。
同年、初めてミッドカットが登場。ストラップ付きとなしの2タイプが発売されましたが、少なくとも日本国内では見事なまでに売れなかった不遇の存在という印象が強いです。
しかしながら、2006年からNIKE SBラインで復活。以降、一定の間隔を開けながも継続投入され、そのカラーバリエーションは決して少なくありません。

2005年秋にはNIKE DUNK誕生20周年を記念して補強部分がスエード仕様のカレッジカラーがNIKE SBラインでリリースされます。
NIKE DUNK 誕生20周年記念企画 NIKE DUNK HIGH PRO SB (True to Your School シリーズ)の一部です
■ NIKE DUNK その後
ラストを新たにしたNIKE DUNK '08や過去に人気を博したAIR FORCE 1のカラーブロックを落とし込んだり、ご当地ダンク、VNTGシリーズ、DUNK SB成長期のローカットをハイカットにした復刻やBE TRUE DUNK PACK等で時折注目を集めるものの…過去にカラー、素材、ハイブリッドを含めて多色展開され過ぎた為か?NIKE DUNKにとっての低迷期が続きます。
そんな中、2010年12月…NIKE STADIUM TOKYO においてフォトセッションイベント BE TURE TO YOUR STREETが開催されます。このイベントは 12月18日より約 1年を通じて展開されるNIKE DUNKの新コンセプト戦略を記念して関係者や著名人を集め実施されたものでした。
会場ではNIKE HARAJUKU、NSW STORE でリリースされる左右非対称のスペシャルモデルをはじめ、全国の主要スニーカーショップで展開されるニューカラーを数多く展示。加えてビンテージ仕様の裏ダンクの発売を翌月に控え、否応なしにNIKE DUNKの人気再燃に期待が膨らみました。
ですが、一部のスペシャルモデル以外は大きな反響は得られず、多色継続乱発による後遺症?はこの時点では未だ根深く残っている事を思い知らされました。
尚、NIKE DUNK SBの補強部部(オーバーレイ)の一部とアウトソールのパターンがマイナーチェンジされたのも2011年からでした。

その後、待望のオリジナルカラーのハイカットが2016年春にNIKE DUNK RETRO QSとして発売されます。取扱店舗が限られ足数も少なかったせいもあってカラーによっては即日完売。そうでないものも店頭から姿を消すまでにさほど時間を要しませんでした。
これをきっかけに、バリエーション展開が進むのか?と期待するものの、パタリと止まったのは…これも試験的な試みによる発売だったのかも知れません。
ナイキのマーケティングは既にある過去のデータよりもトライアルでリリースして様子を見る事がよくあるので、ユーザーとしては時折戸惑ってしまう事があります。

2017年夏には、かつて数多のヒット作を世に送り出した日本企画に敬意を込めた3タイプのNIKE DUNK LOW JP QSがCO.JPとしてリリースされました。
■ NIKE DUNKの現在と未来
2019年にクレイジーダンクNIKE DUNK LOW "VIOTECH "を2013年に続き再々復刻させたのを皮切りに、OFF-WHITEとのコラボレーションをリリース。年が明けて2020年にNIKE DUNK LOW SP PLUM、白青、白オレンジ、ブラジルカラー、白赤、紺オレンジが立て続けに登場。2021年に発売されるであろうプロダクトのリーク画像がSNS上を駆け巡っています。
NIKE DUNK LOW ブラジルカラー 2001年版と2020年版の比較画像
復刻モデルでオリジナルを完全再現されることは少なく、このNIKE DUNK LOWブラジルカラーも例外ではありませんでした。最も顕著なのはバーシティメイズ(イエロー系)部分の色合いが違っているところでしょうか。2001年版の方が2020年版よりも赤みが強く出ています。また、サイドスウッシュの仕上げやシュータンタグのロゴサイズ、ヒールロゴが型押しと刺繍など随所に差異が見られます。
NIKE DUNKがSBシリーズ以外でも展開される事は、NIKE DUNKファンとして嬉しい限りなのですが、願わくば上質のリアルスムースレザーを使いオリジナルカラーを中心に、奇をてらう事なくオールドスクール感のあるカラーブロックを年に数足のペースで継続リリースして欲しいものです。
更に欲を言えば、直近の様子を振り返ると多くても4,000足余り。少ないものだと500足に満たないという射幸心を煽る様な展開はそろそろお仕舞いにして、それぞれのスニーカーが本来持つデザイン性や機能性という基本的な魅力を武器に勝負をして欲しいと、無理を承知で訴えたい気持ちを抑えられません。
以上、長々と書き連ねてしまいましたが最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
年表的に書くには資料が足りず、何より記憶が曖昧になりつつあり…特に後半は矢継ぎ早になってしまいましたが、あれもこれもと加えていくと膨大な量になるだけでなく、今手元にある資料だけでこれ以上の事を書くのは無理だ!(笑)と自覚しました。何より間違っても嘘や適当な事は書けませんからね。
あくまで個人であり、1ユーザーの視点によるものでしたが、オリジナルから初復刻、そしてそれ以降の日本におけるNIKE DUNKの大まかな流れというか、変遷を少しでもお伝え出来たなら嬉しく思います。

では、今回のコラムの締めくくりに一言。

わりと疲れました(苦笑)。